Hana奥川恒治が綴る日々のblog

2008.08.01過去のHana第三回奥川恒治の会『井筒』のご案内

おかげさまをもちまして今年で三回目を迎えることができました、私の自主公演「奥川恒治の会」をご案内申し上げます。

三回目の今回は世阿弥作の中でもとりわけ代表的な「
井筒[いづつ]
」という作品を取り上げます。この作品は前半の動きがほぼ無く、後半も激しい動きの無い曲なのですが、世阿弥が確立した「能」という演劇の一つの到達した形(完成形)となった代表作です。
世阿弥は、伊勢物語の中でも特に有名な二十三段「筒井筒」を題材に、男女の恋愛をモチーフとして「夢幻能」という形式を作り上げました。それは、舞台上で展開される全ての出来事は「夜明けと共に醒めてしまう僧の夢」という終わり方をするものです。能としてのストーリーは、有常の娘を主人公に幼少から老年、更にその死後までも描きます。
男は結婚後、ある時
河内[かわち]高安[たかやす]
という所に住む女のもとに通うようになってしまいます。一向に咎(とが)める様子も見せない妻を男は不審に思います。男はある夜出かける振りをして、物影から妻の様子を窺(うかが)います。


[かぜ][]けば [おき]白波[しらなみ] 竜田山[たつたやま] 夜半[よわ]にや[きみ]が ひとり[]くらん」
(風が吹けば沖の波も立ち竜田山を一人越えて行くあなたには心細いことでしょう どうぞご無事に)

妻が自分の身を案じる歌を詠んでいたことを知った男は、高安通いを止めるのです。「待つ女」とも言われた女の愛は、この作品の中で死して尚、男の形見を身に着けて舞い、その姿を見て愛しいと思う「不滅の愛」へと昇華されて行くことになるのです。
そしてもう一つの見所となりますのが、以後の作能に多大な影響を与えたと思われる、役の重複(多重構造)です。それは男性の役者が有常の娘(女性)となり、有常の娘は後半で業平の装束を身に着け男装するのです。女装した男性の再男性化という複雑な構図を作り上げます。そしてクライマックスでは、井戸にその姿を映し業平を偲ぶという「男装の更なる女性化」をします。幾重にも重ねられていく人物像、世阿弥が作り上げた能の「粋」がここに結集しているのです。

日本の美意識らしい削られた動き(引き算の美学)の「静」は、目に見える表面とは裏腹に激しいまでの「動」を内に秘めています。制約された中での集約した表現に挑みます。皆様の目にどのように映り、感じられますか、ご高覧戴けますと幸いです。

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