Hana奥川恒治が綴る日々のblog

2013.08.12過去のHana安宅 その二

「安宅」の話を始める前に、少し時代を遡ってみたいと思います。

時は平安時代の終わり頃、平治の乱で源氏は平家に負け、義朝の子頼朝は伊豆へ流罪となり、義経は鞍馬寺に預けられます。義経は武芸を学び都に出掛け、五条の橋で武蔵坊辨慶と出会います。この廻り合いが2人を生涯つなぐ出会いとなるのです。

~仕舞「橋辨慶」の件 ~
辨慶は牛若を見つけていますが、薄衣を担いだ女性の様な姿に、出家の身として声を掛けず通りすがろうとします。しかし牛若はからかってやろうと長刀の柄を蹴飛ばします。怒る辨慶と牛若の対決が始まり、やがて辨慶が「敵わない」と認める所までが仕舞になります。

これを機に牛若と辨慶は主従の契約を交わし、生涯を共にすることになります。やがて牛若は鞍馬寺を出、奥州藤原秀衡の元を目指します。途中、元服(烏帽子折)を済ませ、名を九郎義経と改めます。時は経ち駿河の黄瀬川で陣を張る兄義朝の元に、佐藤忠信ら家臣を引き連れ義経は参陣します。その後、義経の加わる戦は快勝を続け、源氏はついに平家を滅ぼすに至ります。比類なき勲功であり、その恩賞は思いのままとも思えるのですが、義経は大きな過ちも犯します。一つは頼朝の恩人とさえ言える梶原景時や範頼らと仲違いをしたこと、もう一つは頼朝が目指す政治の在り方に背き、役職の任官を自身の判断で受けてしまうことです。義経は鎌倉へ赴くものの、頼朝との対面さえ叶わず、都に戻ります。そして都へ鎌倉からの追手が掛り(正尊)、都落ちを余儀なくされるのです(船辨慶)。

~仕舞「忠信」の件 ~
吉野山から落ちる義経のために、忠信と静が時間稼ぎをすると言うのが大筋です。吉野で忠信が防ぎ矢をした、静が舞を舞った、ということは認められるのですが、二人は吉野山では会っていませんので、謡曲作者のフィクションとなります。仕舞の部分は静が義経の忠義や武力を讃え、その舞の美しさに見る人たちが時の経つのも忘れ義経逃げられるというものです。

そして次回はいよいよ、奥州秀衡の元を目指す義経一行が、加賀の国安宅の関を通る件をご案内申し上げます。

※今週より5週にわたって毎週月曜日に安宅の解説を更新いたします。ご期待ください!

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